『100万回生きたねこ』ラストシーンの清々しさの正体は?【ポッドキャスト】 宮崎哲弥さんと語る。
- Atsumu Ishizuka
- 3月26日
- 読了時間: 12分
更新日:3 時間前

ボンサンスとは
「ボンサンス」はフランス語で「良識」を意味します。「良識とは何か」と考え続けようとする人と共に情報を共有したい。当媒体「ボンサンス」では、良識を考える材料を皆様に提供することを目指しています。
ポッドキャスト第一回目
宮崎哲弥さんをゲストにお呼びして佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」、そして宮崎哲弥さんの著書『100万回生きたねこのナゾを解く』をベースに、仏教、哲学、自己所有、死苦、解脱、十牛図、ナーガールジュナ、存在脅威管理理論(TMT)などについて語りました。
宮崎哲弥さんプロフィール
1962年福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。テレビ、ラジオ、雑誌などで、政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。内閣府経済財政諮問会議「日本21世紀ビジョン」専門調査会、生活・地域ワーキンググループ副主査も務める。
ポッドキャストで語っている書籍の紹介
以下のテキストは、ポッドキャストの理解をサポートするためのものです。音声と一緒にお使いください。
宮崎さんが『100万回生きたねこ』をテーマにした理由
(石塚)宮崎さんが『100万回生きたねこ』をテーマに著書を書こうと思ったきっかけから教えてください。
(宮崎さん)
理由は二つあります。
一つ目の動機は個人的なものです。1977年発刊された直後に『100万回生きたねこ』を読んだ時に感じた佐野洋子さん(著者)の仕掛けた「謎」を、大人になって再読した際に、少しは解くことができたからです。
二つの動機は社会学的な理由で、同作品が1977年の日本での発刊から250万部も売れている。そして2000年代以降に中国でも大ベストセラーとなって250万部以上も売れている、佐野洋子さん(著者)の仕掛けた「謎」は、絵本の中で詳しく解説されることはないのですが、読者は余白から何かを感じ取って納得していると思われるからです。
絵本ベストセラーの背景には「自己所有の感覚」
(宮崎さん)
1960年代後半から西洋諸国、絵本が出版された1970年後半くらいの日本、2000年を過ぎたくらいの中国、いずれも都市部から共同体から切り離された「自己」、「自己所有」の感覚が広まったと考えています。国や村などの共同体が生きる根拠を与えてくれるわけではなくて、自分自身で生死(しょうじ)※を見つけださなければならなくなった。そこにこの絵本がポンッと投げ込まれたのです。
※生死(しょうじ)
生きることと死ぬこと、または生きているか死んでいるかという状態を指す言葉。仏教では「しょうじ」と読み、輪廻転生や苦しみの世界を意味し、「生死一如」のように生と死は一体であるという考え方も表します。日常では生死不明、生死を分ける、生死を彷徨うなどの表現で使われる。
欧米では、リチャードバックさんの「カモメのジョナサン」(1970年にアメリカで出版され、最初は当時のアメリカのヒッピー文化とあいまって口コミで徐々に広がり、1972年6月以降にヒット)が大ベストセラーになりました。日本でも五木寛之さんの翻訳でベストセラー(単行本・文庫本合わせて250万部以上)になっています。
原理的な個人主義、つまり自己所有の観念なしにはこれらの考えを深めるような物語がこれだけ受け入れられることはあり得なかったでしょうね。
自己所有の感覚によって、自分探しが終わらなくなり、自分とは何か、なぜ生きているのか、探究し続けなければならなくなりました。今まで人類が持っていなかった苦しみと言えるでしょう。
(石塚)
「自己所有」は人類が出会った新しい苦しみですね。
退屈な繰り返しと、初めての自己所有
(宮崎さん)
絵本では、主人公の「とらねこ」が不条理な世界に投げこまれて100万回も輪廻転生を繰り返します。「とらねこ」は生きることに飽きていて、もうどうでもいいという不機嫌な態度なのです。さらに「とらねこ」は100万回の生と死を全部覚えています。前世を覚えているというのは、仏教の中では悟った人にしかできない※ことなのです。
※仏教において前世の記憶は、修行によって到達できる「宿命通(しゅくみょうつう)」と呼ばれる能力で、ブッダや高僧など限られた人が持つ特殊な力とされています。ブッダは悟りの夜に過去の生を思い出したと言われる。
日本に多い北伝・大乗仏教では、「中陰(ちゅういん)」と言って、7日ごとに生前の行いの審判を受け、最終的に49日目に生まれ変わる先が決定されます。しかし、南伝仏教(上座部仏教)では、「亡くなったらすぐに次へ生まれ変わる」という考え方が主流で、即時に転生します。この絵本もテレビのチャンネルを変えるようにパッと次の生が立ち上がるような形式をとります。
(石塚)
所有を表す助詞「の」の所有者は、今までは王さま、船のり、サーカスの手品つかい、どろぼう、ひとりぼっちのおばあさん、小さな女の子でしたね。100万1回目の生でようやく「とらねこ」は「自分 ”の” ねこ」になりますね。
(宮崎さん)
それぞれの所有者の時の死にざまも哀れなものばかりでしたね。
所有権を説いたことで知られているのはジョン・ロック(John Locke 1632年8月29日 - 1704年10月28日)ですね。ロックは全ての人には自分自身の身体に対する所有権があると説きました。他者のために十分に良いものが残されていなければならない「十分性の制約」、限度を超える過剰な所有は認められない「浪費(腐敗)の制約」などはつきますが、所有権の原則から労働所有権論(土地などの自然な共有物に労働を加えて得た成果物はその人の私有財産になるとの考え)を導きました。ロックの理論は、現代のリバタリアニズム(自由至上主義)や、個人の自由・財産権を根幹とする自由主義思想に大きな影響を与えました。逆に言えば、身体の自由が奪われるような徴兵制などにリバタリアンは絶対的に反対します。
(石塚)
100万1回目の生で自分を所有できた「とらねこ」は絵本の中でモテ期のようなフェーズが到来しますよね。自己所有した「とらねこ」は自信や価値に満ち溢れて、他の猫たちからも魅力的に見えるようになる。そして他の猫たちにマウントをとって喜びます。
(宮崎さん)
「とらねこ」の自慢話にそっけない態度をとったのが「しろねこ」です。「しろねこ」は何を自慢しても「そう」としか言いません。愛の反対は憎しみではなく無関心という言葉でも言われるように「愛の逆説」ですね。「100万回生きた」試練に耐えたことを根拠にしてもそっけない態度をとられ、万策尽きた「とらねこ」は最後に「そばにいてもいいかい」と尋ねます。「しろねこ」は「ええ」とだけ答える。
仏教的な愛について
(石塚)
宮崎さんの本の中では「自己愛」から「他者愛」への転換と説明があります。「とらねこ」の自己所有ができた後の人生に、すぐに転換期がきて他者存在のことを意識するフェーズに入ります。
(宮崎さん)
仏教において「愛」は、自己中心的な欲求、執着(しゅうちゃく)であり、煩悩(ぼんのう:苦しみの原因)を生成するとみなされて「渇愛(かつあい)」と呼ばれ自覚すべきものとして捉えられます。見返りを求めず生きとし生けるものに平等にそそがれる無償の愛は「慈悲(じひ)」と呼ばれ、真の愛の形として追求されます。しかし、真の愛が良いか悪いかは別の問題となります。
(石塚)
宮崎さんの著書では苫野一徳さんの「絶対分離的尊重」と「存在意味の合一」、D・H・ロレンスさんの「個人は愛することができない。個人がひとたび愛するならば、彼は純粋な個人ではなくなってしまう」などが引用されていて、真の愛に関する見方をいくつか提示してくださっています。西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、フランスの自由・平等・博愛なども愛に関する感覚を持っているのかなと思います。
(宮崎さん)
解脱(げだつ)というのは、「愛着(あいじゃく)」から抜け出すことです。
(石塚)
最近ではSBNR(エスビーエヌアール)(Spiritual But Not Religious:宗教的ではないスピリチュアル)という言い方もあります。同胞的(どうほうてき)になりすぎず、精神的な豊かさや心の安らぎを重視する層を指します。海外から来る日本への旅行者の中にもSBNR層がいて、日本の茶道などを体験することに価値を感じています。
(宮崎さん)
輪廻さえあれば、死苦(しく)から逃れられると考える人も多いでしょう。ところが、「とらねこ」は前世を全て覚えている自我同一性を保ちながら100万回も輪廻をして、死に恐怖を感じないどころか、生が苦しみになります。100万1回目の生で「しろねこ」と出会い、子が生まれ、真の愛を知って、初めて死にたくないと思った。「しろねこ」と共に老いて、「しろねこ」の死に何日も昼夜問わずに慟哭(どうこく)する。そして「とらねこ」も動かなくなり、死を迎える。絵本では「とらねこは二度と生まれ変わらなかった」とあり、最後のページには、誰もいない草原の風景になります。これは十牛図(じゅうぎゅうず)に例えられると思います。
十牛図について
(石塚)
十牛図(じゅうぎゅうず)は、悟りを目指す牧童(修行者)が悟りを追求していく過程を10の段階を図と詩で表したものです。
(宮崎さん)
十牛図の八番目には「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」(人も牛もすべてが空(くう)になる感覚)、九番目に「返本還源(へんぽんげんげん)」(ありのままの自然な姿に立ち返る)がきます。この返本還源で描かれる人も牛も消え去った風景だけの感覚、これが絵本のラストシーンの感覚に例えられると思います。
十牛図で描かれる「返本還源(へんぽんげんげん)」
1、尋牛(じんぎゅう): 牛を探し求める。悟りを探すがどこにいるかわからない状態。
2、見跡(けんせき): 牛の足跡を見つける。教え(経典)や公案に触れる。
3、見牛(けんぎゅう): 牛の姿を少し見る。本性に少し気づく。
4、得牛(とくぎゅう): 牛をつかまえる。真の自己を得るが、まだなじんでいない。
5、牧牛(ぼくぎゅう): 牛をてなずける。悟りを自分のものにする修行。
6、騎牛帰家(きぎゅうか): 牛の背に乗って家(安らぎ)に帰る。
7、忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん): 牛を忘れる。牛はもともと自分の中にあったと気づく。
8、人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう): 人も牛もすべてが空(くう)になる。
9、返本還源(へんぽんげんげん): ありのままの自然な姿に立ち返る。
10、入廛垂手(にってんすいしゅ): 街に出て、人々に慈悲を施す(利他)
十牛図(伝 周文 筆(相国寺蔵)ウィキペディアより)
(宮崎さん)
「とらねこ」は真の愛を知って、真の生存欲に辿り着き、死にたくないと願ったが無常(むじょう)の理(ことわり)によって否定された。現世的な感覚からこの現象を見れば、満足したので思い残すことがないので死を迎えたとも読めるでしょう。しかし、「とらねこ」は死ぬのを嫌がったのに死んでしまい、二度と生まれ変わらない。そして風景だけが残る。仏教で言うところの無常(むじょう)の理(ことわり)、流れそのものになったと言えるでしょう。それは解脱(げだつ)、悟りに近づいたのだと思います。菩薩の宗教である大乗仏教はその後の慈悲の生、入廛垂手(にってんすいしゅ)までを描きますが、初期仏教ではここまで、返本還源(へんぽんげんげん)までです。
ナーガールジュナは言語を問題とした
(石塚)
ナーガールジュナ(龍樹、150頃-250頃)は、大乗仏教の思想を体系化したインドの僧で、「八宗の祖」と言われています。『中論』と言われることが多い主著『根本中頌』(こんぽんちゅうじゅ)、)の中で、「縁起」の思想を「空(くう)」の論理で定義し、空・無自性・中道を提唱した「中観(ちゅうがん)派」の祖です。言語的な区別(有か無か、生か滅か)では真の姿を捉えられず、言葉が実体を固定化して捉える「戯論(けろん)」であるとして、言葉は真実を表す力を持たないとしながらも、「空」の理論を説明するためのツールとしては有用としています。
(宮崎さん)
ここでポイントなのは、この本を読み終えた後の読後感の「清々しさ」です。日常的には意識されたり、言語化されたりすることはないのですが、中観に至る仏教的な感覚を日本人はどこかに保持しているのではないかという事です。最後の最後に、この感覚が出てくる。自己所有を確立すれば生死(しょうじ)の問題が苦しみを増大させていく。そして、眠っていた空(くう)や中道に至るようなミームが発現するということです。
(石塚)
ミームは遺伝子との類推から生まれた概念で、遺伝子のようなイメージで、脳から脳へと伝達・複製される文化の情報の基本単位のこと。「自己複製的な脳構造、すなわち脳から脳へと再構成されるような神経回路の具体的な型」(リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』)と言われる。
存在脅威管理理論(TMT:Terror Management Theory)
(石塚)
自己所有の感覚が生み出す生死(しょうじ)の問題は、1970年代の終わりくらいから社会心理学でも取り上げられるようになり、ここ20年くらいの間では「存在脅威管理理論」として調査・分析・評価されるべきかが論じられています。ノルウェーの哲学者ツァプファ(Peter Wessel Zapffe、1899年12月18日 - 1990年10月12日)は四つの防衛する仕組み、隔離、錨づけ(いかりづけ:アンカリング)、気晴らし、昇華をあげています。
仏教的な政治態度とは
(宮崎さん)
仏教は「生への執着(存在欲)」を解体する営みでもあります。欲望の解体と煩悩のコントロールをすることによって、政治や経済が陥っている「欲望のインフレ」に対して、特定のイデオロギーや意見に固執することなく、状況に合わせて柔軟に行動するでしょう。そして、言葉によって構築されてしまった世界認識から離れて、離言(りごん:言葉が剥がれ落ちた状態からの視点)の境地から冷静に世界や政治の動向を分析する姿勢が必要です。恨みは生存欲に基づくんです。つまり煩悩なんです。
『実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。』
これは釈迦が説いた『ダンマパダ(法句経)』※の一句です。
※ダンマパダ(法句経:ほっくぎょう)は、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム)で伝えた、韻文のみからなる経典のこと。
(石塚)
スリランカの元大統領ジャヤワルダナさんは、1951年のサンフランシスコ講和会議に当時セイロンの代表(ジャヤワルダナさんさんは当時蔵相)として出席し「日本の掲げた理想に、独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases not by hatred, but by love)」と演説されました。日本に対する厳しい制裁処置を求めた戦勝国の精神を動かしたとも言われ、日本の賠償請求の緩和に影響を与えたと言われています。
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